イギリス留学の思い出

20年以上前に経験したイギリス留学の思い出を取りとめもなく書く

街角の押し売り

ロンドンにいたころ、何度か押し売りにあった。

その押し売りの話はルームメイトから聞いていた。ルームメイトのS君が道を歩いていると、誰かに呼び止められたという。

その人物は車の中からS君を呼び、服を売りつけてきたんだそうだ。

おしゃれ好きなS君はその服を買いそうになったという。でも高額なので結局買わなかったそうだ。

「高級な服だから火にかけても燃えないんだ。欲しかった」とS君は残念そうに言っていた。

僕はそれを聞いて「まさか」と信じなかった。

 

そして数か月後。僕はS君と同じ経験をしたのだ。

夕方、サウスケンジントンの美しいストリートを歩いていた時、つたない英語で呼び止められる。振り向くと車の中からラテン系の男性がこちらを呼んでいる。

「道にでも迷ったのかな?」と思いながら近づくと、男性は「服を買わないか?」と言ってきた。

ピンときた。この男があのS君の言っていた売人か。彼はこの辺りをなわばりにしているんだろう。

 

「私はミラノから来たファッションコーディネーターだ。ロンドンで開催されたファッションショーに出たんだけど、服をイタリアに持って帰ると税金がかかるので、ロンドンでそれらを売って身軽になって帰りたいんだ」

男は高級そうなスーツを取り出して「50ポンドでどうだ?」と言った。

 

もし本当のミラノ仕立てなら、50ポンドは破格に安い。けれど僕はファッションに興味がなかった。その時も、洗いすぎて色の薄くなったペラペラのユニクロの服を着ていた。この売人、ターゲットはちゃんと選んだ方がいい。僕の格好を見て無駄だと分からないのか?アジア人だから騙しやすいと思ったのか?

僕はスーツを見ながら渋っていた。

 

すると売人はライターを取り出し、そのスーツを火であぶり始めた。

「見ろ、高級品だから燃やしても燃えないんだ」と売人は得意そうに言う。

うわー、S君の言った通りだ。僕はそれを実際に見ることができて感動した。

トリックを暴こうとじーっと見つめていたけど、確かに服は燃えていなかった。どういう仕組みなんだろう。今でも分からない。

 

「これで50ポンドは安いぞ」と売人は言うけど、僕は服に1ポンドすら使いたくない性格なのだ。「いらない。着ないし」と何度も断った。そのたびに火であぶる売人。いっそ燃え始めるまで付き合おうかと思い始めたとき、売人は急に冷めた表情になり、「分かった」と言ってどこかへ行ってしまった。

 

ロンドンは国際的な街なので、いろんな商人がいるなと感心した。

授業料に戦慄する

日本人がイギリス留学したいといっても、簡単にできるわけじゃない。

英語もそうだけど、なにより困るのが留学費用だ。はっきり言ってイギリスは高い。

今も高いだろうけど、僕が留学した当時もめちゃくちゃ高かった。

 

イギリスの大学の授業料は国籍によって違う。イギリス人学生が一番安く、旧植民地国やアフリカなどの貧困国の留学生も比較的安い。次に安いのがEUなどのヨーロッパ諸国。日本人学生の授業料は一番高かった。イギリス人より数倍高い。

不公平に感じたけど、しょうがない。

 

昨今は円安で留学がより難しくなってるように感じる。

僕がいた当時も円安が進んでいて、イギリスに渡航する時点で1ポンドが180円を超えていた。留学前にせっせとバイトをして留学費用を貯めていたけど、ポンドに両替したらみるみる貯金が減っていく。僕はこの「金が減っていくだけの状態」が精神的にとてもきつかった。

 

中国人クラスメイトのリウ君は、たまにワイシャツと黒ズボンをビシッと決めた格好で授業に来ることがあった。聞くと「チャイナタウンでウエイターのバイトしている」と言う。

在ロンドン中国人は独自の巨大コミュニティを作っており、それ自体が一大社会を築き、仕事のあっせんから職や住居の世話、金の工面などありとあらゆるサポートを提供してお互いに助け合っていた。イギリスで成功した中国人富豪たちが後進を援助していたのだ。

 

ロンドンには日本人も多くいた。金持ち日本人も多かった。でも、彼ら日本人がお互いに助け合うことは(僕も含めて)ほとんどなかった。

僕はいつも中国人コミュニティがうらやましかった。

 

ちょっと横道にそれるけど、僕がイギリスにいたころの在外日本人について。

在外日本人は、なぜかお互いに警戒し、見栄を張り、マウント合戦を繰り広げる。「どの学校か、どの会社の駐在か、どこに住んでるのか、年収は、語学力は、子供の学校は」と、ただひたすらに相手を品定めし、弱者を軽んじる。

まああまり詳しくは書かないけど、僕もそういう見下しにあったことがある。

海外のどの国でも日本人コミュニティはそういうくだらないマウント合戦を行うと聞く。イギリスは特にひどいそうだ。今は知らないけど、僕のいたころはまだ日本企業が強かったので、駐在さんは特に肩で風を切って歩いていた。

 

話を戻す。僕がロンドンにいる間に円安がどんどん進み、ついに1ポンドが200円を超えてしまった。

僕のコースの授業料は一年でたしか8000ポンドぐらいだったはず。日本円にしたら160万を超える。とんでもない額だ。入学後3か月以内に払うことになっていた。

ある日、ふと円高が進み、180円くらいまで上がったことがあった。僕はその時を見計らって授業料を一気に払い込んだ。払い込んで間もなく、また円は200円あたりまで下がっていった。

あれは僕にとって最良のタイミングだった。

 

ところで当時、労働党のブレア政権が「国内学生(つまりイギリス人)の大学授業料を何倍にも増加する」方針を発表し、僕がいた大学でも学生たちが毎日抗議活動を行っていた。

彼らは「ブレアのせいで授業料が9000ポンドになるぞ!」と怒ってたけど、その数字は3年間合計の数字で、しかもかなりの誇張だ。

僕は「こっちなんか一年で8000だぞ」と内心冷ややかな目で見ていた。

夢がかなう

ケンブリッジに願書を出してからというもの、返事が待ち遠しくて毎日がソワソワしていた。

研究室に見学に行き、そこで前向きな返事をもらうものの、その後何も進展はなく、もう数か月が過ぎていた。僕はそうした状況に構わず願書を出し、願書の志望研究先の欄にその研究室の名前を書いた。

 

そして数か月。

 

待ちに待った返事がついに来た。

Conditional offer。つまり「条件付き入学許可」だ。

 

最初はメールでもらったんだったか、それとも郵送だったか、覚えてないけど、とにかく許可をもらったのだ。

この時が人生最大級の喜びを味わった瞬間だった。今思い返しても、あれほど嬉しかったことはその後の人生の中でもそうはない。

 

そしてほどなく別のメールをもらう。カレッジからだ。カレッジは寮のようなもので、大学とは違う。

僕は30ほどあるカレッジのうち特に有名なカレッジを志望していたけど、そのどれにも落選した。代わりにオファーをもらったのが「Sカレッジ」(ここでは一応名前を伏せておく。そのうち書くかも)。

僕はこのカレッジからのオファーを即答で受諾しようとメールを書き、送信直前にはたと考えた。

本当にここでいいのか?

 

前にも書いたけど、僕は前年にもケンブリッジの修士コースからオファーをもらっていた。その時は英語力が足りなくて泣く泣く辞退したけど、その時にオファーをもらっていたのは、「ガートンカレッジ」というカレッジだった。

もともと女子専用だったガートンカレッジは「ケンブリッジ大学から最も遠い場所にあるカレッジ」として有名だった。けれどせせこましい街中とは違い、郊外の田舎にあるこのカレッジは広々として、屋内プールを持つ唯一のカレッジでもあった。

ガートンには僕はなぜか恩義を感じていた。「入学資格のない僕を拾い上げてくれたカレッジ」という思い入れがあり、入学辞退メールを送るときも「次回出願の際は必ず御カレッジを第一志望に選びます」と書いたほどだ。

 

実際の僕は、翌年の出願でガートンを志望しなかった。申し訳ない。

 

そういういきさつがあり、Sカレッジからのオファーが来た時も、ガートンのことが引っかかっていた。

けれどガートンは遠いのだ。Sカレッジは街中にあった。それが決め手となり、僕はSカレッジを受諾した。今となっては、ガートンもよかったかもなあ、と思うことがある。

 

ところで「条件付き」の入学許可は、当然入学条件が付いていた。

その条件とは「現在在籍するコースを修了すること」、それから「ちゃんと授業料を払うこと」だ。

そのどちらも僕は問題を抱えていた。

進学のための願書を書く

ロンドンの大学に来てから、もちろんそこでの勉強も一生懸命やったけど、僕はその先をずっと見据えていた。ロンドンに来てからすぐにその準備を始めていた。

 

もう何度も書いたけど、僕はケンブリッジの博士課程に進みたいとずっと願っていたのだ。そのための用意は以下の通り。

  • 英語の試験。IELTS(アイエルツ)という検定試験がある。イギリス英語圏で標準的に使われる試験だ。僕はこの試験を日本にいるときから何度も受けていた。けれど留学を始める前にケンブリッジの要求水準に達することができなかったのだ。ロンドンに来て再びこの試験を受け、ついに要求水準に達することができた。
    後日談:のちにこの試験を受ける必要がなかったことが発覚する。イギリスの大学院に在籍する学生は英語力証明はいらなかったらしいのだ。まあ、どっちにしろ英語は勉強しなきゃいけなかったので、無駄ではなかったと思う。

 

  • 推薦状。現在在籍する学校の先生から推薦状を2通書いてもらう必要があった。インペリアルカレッジに来てわずか数か月、こんな状態で果たして推薦状を書いてくれるのかと心配したけど、教授の先生は驚くほどあっけなく推薦状を書いてくれた(封をして渡されたので内容は知らないけど)。イギリスでは推薦状を書くのはありふれたことらしい。

 

  • 希望する研究機関と話を付ける。ホームページを見て、関係ありそうなところに片っ端から連絡しまくった。このころの僕は、「何をしたい」ではなく、「ケンブリッジに行きたい」が先に立っていたので、少しでも興味がかぶっていればためらいなくメールしまくった。そのうちの1人からある研究室を勧められ、そこに見学に行ったらその日のうちにあっという間に受け入れられてしまった。
    これが一番拍子抜けした。

 

  • 「カレッジ」を決める。これがケンブリッジ(とオックスフォード)に特有のシステムで、「大学」とは別に「カレッジ」に所属する決まりになっていた。実質ハリーポッターに出てくる寮みたいなものだ。ケンブリッジにはカレッジが30ぐらいあり、第三希望まで所属希望を願書に書くことができた。
    後から聞くところによると、研究機関と同様、出願前にあらかじめ希望カレッジに連絡を取って所属を確保しておくのが通例らしかった。僕はそんなことは知らなかったので、適当に有名カレッジを3つ選んで願書に書いた。

 

  • 「エッセイ」を書く。エッセイとは、志望動機とか、研究計画とか、そういうたぐいの小論文だ。僕はすでに日本で一度出願しており、その時のエッセイを使いまわし、それに現在所属する学部で何を勉強しているか、何に興味があるかを付け足した。

 

  • 願書を出す。ケンブリッジのホームページから願書取り寄せを頼むと、分厚いパンフレットとともに願書が郵送されてくる。これは日本で頼んだ時もそうだった(その時はイギリスからわざわざ郵送してくれたことに感動した)。
    願書を書くのは緊張するものだ。なるべく丁寧に、間違えないように、震える手で願書を書いたのを覚えてる。別に願書の綺麗さは入学合否に影響しないけど、やっぱり丁寧に書いた方が印象もいいだろうと思って。

 

願書を送って、「どうか受かってくれ」と必死に祈る。

この祈りは半年近く続いた。

引っ越し

3学期になり、学部生たちが春休みに入ると、僕ら寮生はいままで使っていた部屋にいられなくなった。

ロンドンの超一等地にあるインペリアルカレッジの寮は、学生がいなくなって部屋が空くと、そこをホテルのように使って客を泊めるのだ。

大学もボランティアじゃないので、金を稼がなきゃいけない。

 

僕は日本人のルームメイトとともに屋根裏の一室を使っていた。そこを追い出されることになった。

とはいっても、僕らは同じ寮に引き続きいられることになった。今度は半地下。

その新しい部屋は以前の部屋より若干小さめだった。まあ寮を追い出されないならどこだっていい。

引き続き同じルームメイトと共同で部屋を使うことになった。

 

部屋は小さくなったけど、キッチンはだだっ広くなった。今までは数人で使っていたキッチンだったけど、地下にあるキッチンは建物内ほとんどの寮生のためのものだった。

僕はそこでもほとんど料理をしなかったけど。

 

引っ越しの日。僕は自分の荷物をトランクに詰め、入らない分はビニール袋に詰め込み、狭い階段(ほんとうに幅が一人分しかない)をそれらと一緒に降り、荷物を地下に運んだ。

全部一緒には運べないので、ひとつづつ、地上に下ろしていく。

 

その日はみんなが一斉に部屋を大移動した。ほとんどの大学院寮生は引き続きその寮にとどまった。

引っ越しは楽しかった。いままで自分がいた寮にどんな部屋があるのか知らなかったので、空っぽの部屋をあちこち見て回るのが面白かった。

中には大きな部屋に移った人もいる。僕はルームメイトと「僕らの部屋って小さいよね」とちょっと文句を言ったりした。

 

引っ越しが終わる。僕はそのあとにジュースを買って、寮の前で建物を見上げながらそれを飲み干した。

いい天気だった。きれいなジョージアンスタイルの建物が青空に映えた。

僕はこんなにもいい条件の寮に暮らせることを感謝した。

 

ところで後日談だけど、僕は日本円の現金とトラベラーズチェック、あわせて数十万を財布(普段使いの財布とは別の新品の長財布)に入れて持っていた。

後日、その財布がなくなっているのに気付いた。いつも財布をチェックしていたわけじゃなかったので、気づくのが遅れてしまった。

僕が思うに、この財布が盗まれたのはほぼ間違いなくこの引っ越しの時だ。愚かなことに、トラベラーズチェックは署名をしていなかったので、財布内の全額が損失となった。

 

高級街であっても、学生ばかりでも、そこは日本じゃない。決して油断ならないイギリス、ロンドンなのだ。

今思い出しても自分のうかつさを後悔するばかり。

午後の楽しみ

3学期に入り、苦痛と苦難に満ちた授業が終わり、春も来て、僕の気持ちは本当に軽く、明るくなった。

5月あたりからは修士論文を書くために個別で研究をすることになる。

 

僕が選んだ研究の担当教官はスペイン人の講師の若めの先生で、とても穏やかな人だった。僕はこの先生と研究をするのがとても楽しかった。

修士研究と言っても、3か月弱で大したことはできない。レポートを書く演習に毛の生えたようなものだ。研究内容だけで言えば、たぶん日本の大学院の修士課程より薄いものだろう。イギリスの修士課程は1年しかなく、しかもそこに講義がぎっちり詰まっているので、無理もないことだ。

 

とはいっても何か新しいことをしなくちゃいけない。僕は週一回ほどその先生のオフィスを訪ね、進捗を報告したり方針を話し合ったりした。

研究はパソコン上で済むものだった。だからノーパソがあればどこでもできる。別に自分の部屋でやってもよかったんだけど、メリハリをつけるために僕は毎日図書館に行き、そこで黙々とプログラミングをした。

 

プログラミングは好きだったし、得意でもあったから、このころの研究は本当に楽しかった。

図書館はモダンで広く、夏時間のおかげでずっと明るく、本当に居心地のいい場所なのだ。

 

このころ僕にとって楽しみなことができた。コーヒータイムだ。

インペリアルカレッジにはいくつか高いビルが建っているけど、偶然そのうちの一つに入ったことがあった。

確か誰かに会いに行ったんだと思う。高層階の一室がカフェのようになっていた。

 

そこは何の変哲もない小さめな部屋だったけど、眺めがよく、明るく、ソファがあり、小さな売店のようなものがあり、パンや飲み物が売っていた。

僕はその部屋がとても気に入り、昼下がりになるといつもそこに行ってパンを買い、コーヒーを飲んだ。ただ一人でぼーっとする。

とてもリラックスした時間を小一時間過ごし、また図書館に帰り、そこで夜まで自分のペースで研究をする。

 

ロンドンの留学生活は苦難に満ちていたけど、修士研究をしていたころの日々は不思議と僕の中では楽しかった懐かしい思い出となっている。

3学期

僕の属していた修士コースは3学期はたしか4月から始まったと思う。

2学期と比べて科目がぐっと減り、内容も難しい医学や工学の授業から医療政策や医療安全などの人文的な内容に移っていった。そのため僕の授業に対するプレッシャーはぐっと減り、同時に季節が春めいてきたこともあって、とてもリラックスした気分で日々を過ごすことができた。

とはいっても別に自分の能力が上がったわけじゃない。授業内容は相変わらずあんまりわからなかったし、もらった講義資料を基に図書館で復習するという日々がその後も続いた。

 

それらの授業は数週間で終わった。試験もあった気がするけど、それらの試験に関して苦労した覚えがあまりない(出来は良くなかったと思う)。

 

授業が終わった後は研究テーマを決めて修士論文を書くことになっていた。

所属する学部には講師や教授が何人か属しており、各先生が研究テーマをいくつか提示し、各学生がそれらからテーマを選んでその先生と一緒に修士論文を書く、という流れになっていた。うちの学部だけでなく、提携する学部の先生の研究テーマもあった。

期間はたしか5月ごろから7月までの3か月ほど。

 

僕は研究テーマをもう早々と決めていた。神経科学だ。なにせそれがやりたくてイギリスに来たのだ。

そのテーマを受け持つ先生はスペイン人の講師の先生だった。彼の授業を受けたことはなかったので、テーマを選ぶ時に初めてその先生と会話を交わしたのだった。

 

学生全員が研究テーマを決めた後、各々数分間のプレゼン資料にまとめ、自分がやりたい研究をみんなの前で発表した。その後は各人が個別に担当の先生と一緒に研究を進めていくことになる。

クラスメイト全員で集まったのは、その研究テーマ発表会が最後だった。

 

正直、ほとんどのクラスメイトとはあまり親しくしなかった。アジア人クラスメイトの何人かとはウマが合ったのでよくコンピュータ室で雑談をしたりしたけど、個人的に遊びに行ったりすることはなかった。

 

みんな頭がよかったので、こちらが勝手に引け目を感じていたのもある。

僕と最も仲良くしてくれた中国人のリウ君も、見た目ぼーっとしてとても付き合いやすかったけど、彼も本国では精華大学という超エリート大学を出ていたのだ。

いつもみんなに劣等感を感じていた。

 

そういう僕の性格のせいもあり、個別に行う修士論文研究は僕にとって本当に心地のいいものだった。